【第十話】山下栄蔵と大石精肉店
 時代は昭和へと移り、大石精肉店の祖である新通山下家の牛肉商はどうなっていったのかお話しましょう。山下豊吉が慶応二年に牛肉販売を始めて(静岡市で初めて牛肉販売を業としたのは、元治元年の新ヶ谷町、望月茂平であり、豊吉は二番目)二代目銀蔵の頃、ダイゼンさんが修行をして独立。昭和に入ると三代目栄蔵の時代へと移っていた。栄蔵は元来牛肉屋という家業に熱意が持てず、機械いじりが好きで、自動車やオートバイに関心を持っていました。大正六年九月に栄蔵は田中ひでと結婚。この結婚にはかなりの障害があったらしい。というのは、田中家は士族でありました。山下家は、いわゆる四足(よつあし)と蔑称される牛の肉を扱っている。士族が高級で牛肉を扱う者が卑しむべき家筋であるという論理は現代人には見当もつかないが、大正六年という時点では相当有力なものでありました。栄蔵とひでは、この障害を乗り越えて結ばれ、その愛情と信頼は生涯を通じて変わりませんでした。しかし、ひではこの結婚の申し込みに際し、「将来、牛肉販売業は続けない。自動車関係の営業に転ずる。」という口約を栄蔵から得ていたのでした。だが約束はあったが、ひでは山下家の新しい女主人として昭和八年まで家業に精勤したのです。
 この間、実に十六年に及ぶが、栄蔵はほとんど家業に形跡はなく、一切ひでに委ねている。栄蔵はこの十六年の間に、「山下バス商会」「山下自動車商会」を設立しました。そして軽便鉄道「安倍鉄道」(井宮〜牛妻間)のライバルとして安倍街道を走るバス「安倍自動車商会」も設立。更に清水で「清水自動車商会」というバス・タクシー営業も始めていました。そしてついに昭和八年、栄蔵は安倍鉄道を買収。その年の暮れ、十二月二十三日、皇太子御誕生の佳月をもって家業の牛肉商を廃業し新しい物流の未来をかけた自動車営業に全力を傾ける姿勢をとったのです。(山下自動車商会は、後の静岡鉄道バス部門へと変化してゆくことになる)牛肉商の廃業にあたり、大きな納入先であった「帝国陸軍第三十四連隊」(現・駿府公園内)と静岡刑務所(現・静岡市民文化会館)を含む多くの納入先の顧客は、山下での番頭時代から納入先に可愛がられて独立出店した、ダイゼンさんの大石精肉店へと受け継がれたのでした。こうして、大石精肉店は、業務用卸という販路を得たのです。
(静岡県自動車学園刊「山下栄蔵伝」参照  及び引用)

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【第九話】大正から昭和へ
 時代は大正から昭和へと移り、ダイゼンさん(大石善作)は「きみ」さんと再婚しました。生前、二代目要弌が当時を思い出して、「当時一番欲しかったものはおかあちゃんだった」と孫である私に言ったことを覚えています。
 私はダイゼンさんが亡くなってから生まれたのですが、「きみ」さんは記憶にあります。ただ祖父要弌から、きみと要弌の血がつながっていないことを聞かされるまでは、私と血のつながった祖々母が「大きいおばあちゃん」(きみ)だと思っていました。そう、私にとって初代善作の妻きみは「大きいおばあちゃん」であり、二代目要弌の妻はまは「小さいおばあちゃん」と呼び分けて、一つ屋根の下で生活していたのです。善作ときみの間には二男二女、四人の子供が生まれました。大石家は善作の父吉蔵、母ふさを含めて八人の大家族となったのです。では当時の大石精肉店の様子はどうだったのでしょうか。
 当時の一般消費者は肉をあまり食べずに、動物性たんぱく質は魚貝類でまかなっていたため、上質で高価な部位であるロース・ヒレなどは、家庭ではまったく消費しなかったようです。そこで大石精肉店は、安価な部位(ウデ・バラ・モモ)をより多くの人々に販売できるように、できるだけ安く販売して「残さず売り切る」ことをモットーとしていました。現在のように部位別に肉が流通していなかった当時では、一頭をと殺すれば当然、必要なくても牛ロースなどの高級な部位が店に残るようになります。その上、真空パックなども無く長期保存が出来ないので、まんべんなく売り切らなくてはなりません。そこで、高級な部位は近くの両替町三笑亭本店に流していたそうです。三笑亭本店は料亭も設けており精肉販売だけではなく、飲食業としても精肉を消費していたのです。(後に三笑亭本店と大石精肉店は、静岡県食肉組合設立など戦後の食肉業界に二人三脚で尽力してゆくことになる)「安価な肉を少量ずつ販売していては採算がとれない」「高級な肉を販売しなくては、店舗として店主としてはずかしい」と考えたダイゼンさんは、料亭・洋食屋への卸売という道を歩み始めるのです。大量に販売するためには、大量の在庫が必要となります。そこで、豚舎をつくることにしました。
 昭和八年十二月二十三日、皇太子御誕生。(平成天皇) この日から、大石精肉店の商売は大きく変わってゆくのです。これには理由がありました。

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【第八話】通年の精肉販売ができたのはコロッケのおかげも
 お肉屋さんの○○と聞いたら、多くの人が「コロッケ」と答えるでしょう。大石精肉店でもコロッケは、大正の頃から現在に至るまでの定番商品(スタンダード)です。「♪今日もコロッケ・・・♪」と、あの有名な「コロッケの唄」が大流行したように、日本の洋食文化はコロッケと共に全国の家庭の食卓へと広がりました。
 実は、このコロッケ、全国のお肉屋さんにとって救世主だったのです。肉を食べたいが高級品であり、当時の家族構成も大家族が主流でしたから、家族全員が満足するほど肉を購入することは経済的に大変なことでした。コロッケはほとんどがジャガイモ、タマネギであり、肉の使用量は少量で済みますし、当時は洋食メニューが珍しい頃でしたから、子どもから老人までが喜んで食べました。また、低価格でボリュームがあります。以上は消費者側の考えです。
 では、お肉屋さんから見た考えはどうでしょうか。一つは、洋食を食卓に広げた立役者であるということ。ナイフで切って食べるステーキとは違い、やわらかく、子どもから老人まで全ての年齢層に好まれるメニューであるということ。そして、フライであるためボリュームもあります。
 二つ目は「ロス対策」。コロッケは翌日になって鮮度が低下した肉であっても、惣菜という付加価値を付けて販売することができます。冷蔵、冷凍設備が現在のように充分でなかった昔では、それは大変ありがたいことでした。
 三つ目は、自家製ラードをどこのお肉屋さんも作っていたということ。当時の精肉店は一頭をさばいて販売していたので、肉以外に骨・脂が発生することになります。毛は歯ブラシ、皮は皮製品、骨はスープ、脂はラード、肉・内臓は店頭にというように全てが商品になっていたのです。即ち、肉屋さんには、単品で仕入れなくても自家製ラードが店頭にあった時代だったのです。
「洋食文化の伝播」「ロス対策」「自家製ラードの消費」この三つが重なり合って「お肉屋さんのコロッケ」が全国的に広がって行ったのです。今日でも、青果・鮮魚店に比べて精肉店の惣菜色が強く出ている原因は、大正時代からのコロッケのおかげなのです。
 当店でも大正の頃より、ふかしたホクホクの国産ジャガイモをつぶし、国産の牛豚合挽肉、タマネギの炒めたものを加え、小判型に成型し、自家製ラードでこんがりと香ばしく揚げております。これぞ「大正ロマンの味」。大石精肉店が冬期だけの精肉販売から通年の精肉販売になるためには、『やき豚』と共にこの『コロッケ』も不可欠な商品でした。

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【第七話】一年中肉屋を開きたいという思いが、当店名物「やき豚」を誕生させる。
 肉屋である以上、半年商売ではなく一年通して肉屋を開きたい。家庭に電気冷蔵庫などなかった時代、例え冷蔵庫があったとしても、上の扉に氷を入れて下の扉の中のものを冷やすだけのこの時代に、真夏に生肉を販売することは無理でした。そこで初代ダイゼンさんは横浜で知った「ラーメンのチャーシュー」をヒントに、ご飯のおかずになる「やき豚」の商品開発に取りかかったのです。
 豚肉を拍子木ぐらいの大きさにカットして、醤油ベースのタレに漬け込む。そして、釜の中に吊るして炭火でじっくりと焼き上げる。この製造工程に至るまでには、大変な苦労があったと聞いております。
 豚肉の大きさ・・・中心までタレの味がしみ込み、そして外側があまり焦げないうちに中まで火が通るための「大きさ・厚さ」の決定までの苦労。
 タレの製造・・・日本の味・醤油とまろやかな甘味の絶品のバランス。大石の「やき豚」の決め手となるこのタレが完成するまでの味の変遷には多くの時間を費やしました。
 炭火の火力・・・一度釜を閉めたら、焼き上がるまで釜は開けません。この間に炭火が消えてもいけないし、強過ぎて周囲が焦げてしまってもいけないのです。これは永年かけて計算されて来た、吊るす肉の量と炭火力の関係データの上に成り立っているのです。
 釜の作成・・・この頃、今の常盤公園は「寺町」と言われ、多くの寺院がありました。その墓地に供える線香立てや花立てを作るために、この辺りには板金工が多くいました。当店の三軒隣にも「神谷板金」がありました。神谷さんとダイゼンさんとで「やき豚」を焼くための釜をいろいろと試作していたというエピソードも残っております。
 かくして努力の結果、中華のチャーシュー(煮豚)ではなく、大石の「やき豚」ができ上がったのです。時は大正末期、大石精肉店の名物「やき豚」は、冷蔵庫要らずの保存食として誕生しました。こうして、「やき豚」のおかげで、ダイゼンさんの念願であった「一年中、肉屋を開きたい」という思いは現実へと向かって行ったのでした。

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【第六話】ダイゼンさん念願の店が下魚町に開店。間口二間、床は土間、まな板・蠅帳があるだけでした。
大正八年十月八日、大石精肉店は下魚町(常盤町二丁目)にて再開しました。間口二間、奥行き十五間ですから、入口は現在の半分という狭さです。
さて、大正時代の大石精肉店はどんな様子だったのでしょうか。静岡大火と空襲で当店の写真がすべて焼失してしまったため、伝え聞く範囲で想像しますと、店頭は土間とまな板、大きな蠅帳があるだけのシンプルなものでした。客だまりもなく、お客様は道路に並んで、道路から店員とやりとりをして買い物をしたのです。
また、冷蔵庫、ショーケースのない時代ですから、お客様から見た様子は、豚や牛の骨付き枝肉が店内にある大きな蠅帳の中に吊る下がっており、その手前にまな板があるだけの土間。これが当時の精肉店であり、ヨーロッパの精肉店のようにモモ肉の生ハムを削り売りしたり、以前に鮮魚店でアンコウの吊るし切りをしたように、客が求める量だけを切り捌いて販売していたのです。
現在では、スライスをするためのスライサー、ひき肉を作るためのチョッパー、保存するための真空パッカー、この三種が肉屋の必需品ですが、これらはすべてなく、包丁三種(1)骨すき、(2)筋引き、(3)手切りですべてをこなしていました。
冷蔵庫ではなく蠅帳というところが特に時代を感じます。生肉に蠅がたからないように、という工夫だけはされていたようです。
一般の家庭には冷蔵庫がない時代ですから、「その日に屠殺し、解体したものを、その日に売り切る」これしか販売方法はありませんでした。
当時の一般家庭の食卓は、特に静岡という土地柄もあってか、動物性タンパク質は魚介類で賄っており、精肉はあまり食卓に上がりませんでした。保存のきかない状況の中で、いかにしてロスを出さないで肉を販売していくか、肉屋さんの知恵比べが全国的に展開されてゆくのも、この頃でした。「半年商売」から、夢の「通年商売」へと向かってゆく過程の中で、あの「名物」が誕生してゆくのです。

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