【第九話】大正から昭和へ
 時代は大正から昭和へと移り、ダイゼンさん(大石善作)は「きみ」さんと再婚しました。生前、二代目要弌が当時を思い出して、「当時一番欲しかったものはおかあちゃんだった」と孫である私に言ったことを覚えています。
 私はダイゼンさんが亡くなってから生まれたのですが、「きみ」さんは記憶にあります。ただ祖父要弌から、きみと要弌の血がつながっていないことを聞かされるまでは、私と血のつながった祖々母が「大きいおばあちゃん」(きみ)だと思っていました。そう、私にとって初代善作の妻きみは「大きいおばあちゃん」であり、二代目要弌の妻はまは「小さいおばあちゃん」と呼び分けて、一つ屋根の下で生活していたのです。善作ときみの間には二男二女、四人の子供が生まれました。大石家は善作の父吉蔵、母ふさを含めて八人の大家族となったのです。では当時の大石精肉店の様子はどうだったのでしょうか。
 当時の一般消費者は肉をあまり食べずに、動物性たんぱく質は魚貝類でまかなっていたため、上質で高価な部位であるロース・ヒレなどは、家庭ではまったく消費しなかったようです。そこで大石精肉店は、安価な部位(ウデ・バラ・モモ)をより多くの人々に販売できるように、できるだけ安く販売して「残さず売り切る」ことをモットーとしていました。現在のように部位別に肉が流通していなかった当時では、一頭をと殺すれば当然、必要なくても牛ロースなどの高級な部位が店に残るようになります。その上、真空パックなども無く長期保存が出来ないので、まんべんなく売り切らなくてはなりません。そこで、高級な部位は近くの両替町三笑亭本店に流していたそうです。三笑亭本店は料亭も設けており精肉販売だけではなく、飲食業としても精肉を消費していたのです。(後に三笑亭本店と大石精肉店は、静岡県食肉組合設立など戦後の食肉業界に二人三脚で尽力してゆくことになる)「安価な肉を少量ずつ販売していては採算がとれない」「高級な肉を販売しなくては、店舗として店主としてはずかしい」と考えたダイゼンさんは、料亭・洋食屋への卸売という道を歩み始めるのです。大量に販売するためには、大量の在庫が必要となります。そこで、豚舎をつくることにしました。
 昭和八年十二月二十三日、皇太子御誕生。(平成天皇) この日から、大石精肉店の商売は大きく変わってゆくのです。これには理由がありました。

| 大石精肉店 | 11:39 | comments (0) | trackback (0) | - |
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