やき豚ものがたり of 大石精肉店
大石精肉店
伝家の宝刀「やき豚」
大石精肉店初代・大石善作(ダイゼンさん)が作り上げ、代々受け継がれてきた大石精肉店伝家の宝刀「やき豚」。厳選されたやき豚を本醸造特選醤油を基本にた「秘伝のたれ」に漬け込み、「備長炭」で時間をかけて吊るし焼きにしております。「その日に作ったものを、その日に売り切る」これが店訓ですが、「やき豚」のできる量から考えて、売り切れも茶飯事です。これは、限定生産ではなく限界生産であることをお客様に承知していただければ幸いです。
炭の香りと醤油の味覚。ご飯と「やき豚」があれば満足してしまうのは、日本人の証。大正ロマンの香り漂う「やき豚」は、日本の食卓に懐かしさをお届けします。皆様のおかげで、現在、北は礼文島から南は石垣島まで、全国から発送注文が入ってくる秘かな静岡発の人気商品へと成長いたしました。
肉屋は冬期商売
日本に食肉文化が広まり始めた明治・大正時代のお肉屋さんは、秋冬のみの半年商売だったといいます。つまり、半年しか肉を売らなかったわけです。どうしてなのか。それは、各家庭に冷蔵庫がなかったからなのです。昔のお肉屋さんは、店舗に牛・豚の枝肉(背中を中心に左右に割ったもの)を吊るしておき、お客様の要望に応じて切り売りをしていました。つまり、夏場ではすぐに商品が腐ってしまうため、冬期だけの商売だったのです。それに現在のように、焼き肉、ステーキ、揚げ物、しゃぶしゃぶなど、肉の料理方法が豊富ではなく牛鍋が中心であったため、需要も冬期に集中していたのです。
七間町、横浜、そして常磐町
大石精肉店初代、大石善作(ダイゼンさん)は、新通りにあった、山下で修行をし、大番頭まで昇り独立。大正六年、七間町通り(現在の七ぶらシネマ通り)に大石精肉店を開店しました。開店から大変繁盛したそうですが、冬期限定が当時の肉屋。半年間は横浜の工場へ出稼ぎに行くことにしました。この出稼ぎが、大石精肉店・伝家の宝刀「やき豚」誕生のきっかけになるのですから、人生どこで何が起こるか分らないものです。
横浜で偶然、ラーメンのトッピングであるチャーシューとであったダイゼンさんは、このチャーシューをご飯のおかず「一品料理」にするためにはどうしたものかと考えるようになったのでした。そこへ、静岡に残してきた家族から、下魚町(常磐町)に今までより広い空き店舗があるという知らせが送られてきたのです。こうしてダイゼンさんは静岡に戻り、大正8年十月、現在の場所で商売を始めたのです。
「やき豚」誕生
肉屋である以上、一年中肉屋を開きたい。家庭に冷蔵庫が普及していない時代、たとえ冷蔵庫があったとしても氷を入れて冷やすだけのこの時代に、夏場に生肉を販売することは無理でした。そこで、ダイゼンさんは考えていた「やき豚」の商品開発にかかったのです。
まず、豚肉を拍子木ぐらいの大きさにカットして醤油ベースのタレに漬け込む。そして釜の中に吊るして炭火でじっくりと焼き上げる。醤油と炭火の香りは日本人の鼻をくすぐる独特のものです。この製造工程にいたるまでには大変な苦労があったと聞いております。豚肉の大きさ、タレの製造、釜の作成、炭火の火力と焼き上げの時間など、すべてに苦労話が残っております。かくして努力の結果、中華のチャーシュー(煮豚)ではなく、和食の焼豚ができあがったのです。
時は大正末期、大石精肉店は「やき豚」のおかげで、ダイゼンさんのねんがんであった「一年中、肉屋を開きたい」という思いは現実となったのでした。
「常磐町、かつては日用品大商業エリア
現在、店舗がある常磐町二丁目は、江戸時代から終戦まで、「下魚(しもうおちょう)」と呼ばれていました。上魚町(かみうおちょう)は武家のための魚屋・八百屋があり、下町に住む庶民はこの下魚町で買い物をしたのです。下魚町は俗称「用町(ようまち)」と呼ばれ、魚、野菜、薬、油、酒、など、ひと歩きすれば「用が足りる町」でした。また町内にある宝台院の境内は広く、相撲・サーカスが巡業する多目的広場でした。近くの七間町には劇場が多くあり、人宿町は旧東海道府中の宿場町でした。また、隣に寺町があり、たくさんの寺院が立ち並び、先祖のお墓に参拝する人々はいつも往来していたのです。江戸・明治・大正・昭和初期において、宿泊・娯楽施設を抱えた日用品の大商業エリア、これが「下魚町」だったのです。
ここで、自称静岡初のデリカテッセン「やき豚」は大ブレイク!サーカスや相撲見物の帰りには宝台院の境内から大石精肉店まで行列が出来たそうですから、昔も今も、遊んだ後の主婦の悩みは「晩のおかず」ということに変わりはないようです。
暗黒の時代
時代は、ハイカラな大正から激動の昭和へと移っていきます。昭和十五年静岡大火で店舗を焼失。その後、苦労して店舗を建て直したものの、時代は暗闇へと移っていきます。物資の乏しい日本は、次第に厳しい状況に陥り、経済統制そして第二次世界大戦へと突入していったのです。当時、静岡市新川にて養豚業も営み、生産・加工・販売をしていた大石精肉店は、帝国陸軍歩兵第三十四連帯に軍用給食材料納入業者として徴用されました。当時は連帯に納入することが最優先で、一般のお客様には統制令の下、店頭での「販売」ではなく、少量ずつの「配給」であったと聞いております。初代・善作、二代・要弌にとって、今までお店を育ててくれたお客様に販売したくても販売できない暗黒の時代でした。この頃は、食材である肉を集めて連隊に納品することが第一であり、「やき豚」を作ることはありませんでした。
昭和二十年、空襲で静岡市街地は焼け野原となりました。大石精肉店は、五年間で二回も焼失を経験したのです。
「やき豚」を守り続ける女性たち
終戦、そして復興。食肉が供給され始め、闇市でしか買えなかった砂糖などの調味料も調達可能となり、「やき豚」は復活しました。
日本が高度経済性成長期に入ると、洋食を中心とした食肉文化が一般に広まり三種の神器の一つである電気冷蔵庫の普及もあって、大石精肉店の店頭販売は急成長しました。また、町の洋食屋さんの出店も相次ぎ、業務用卸売りの量も増加してきました。スーパーマーケットがまだ存在せず、精肉店が一番輝いていた時代でした。
牛・豚を除骨し部位別に分けることは力仕事であり、男性の仕事でした。そのため、初代によって考案された「やき豚」作りは、コロッケ、ポテトサラダ作りと同様に初代の妻の仕事となりました。後に二代目の妻へ、現在は三代目の妻へと受け継がれており、ただいま、四代目の妻は勉強中です。
歴代主人が精肉店の「仕入・加工・小売・卸売」を仕切っている一方で、時間と手間がかかる「やき豚」の焼き上がりをじっくり焦らず待つことに一番適していたのは、人生の中でも手間がかかる歴代主人たちを待つことが多かった、忍耐力がある懐の深い歴代主人たちの妻たちであったということは、適材適所であり、まさに必然のできごとではないのでしょうか。
「やき豚」と夜店市
大石精肉店では、昭和五十年代後半より毎年、静岡中央商店街夜店市にて「やき豚」を販売しております。大正六年、七間町通りでの創業。創業があってこそ現在があるのです。先祖の霊が戻ってくる旧盆の時期に、「やき豚」の生みの親である初代・大石善作(ダイゼンさん)に感謝の気持ちを表し、創業の志をわすれないために、七間町にて「やき豚」を販売させていただいているのです。