【第三話】妻の死という悲しみを乗り越えて精肉販売を始める
2009-03-31 Tue
明治四十年から大正五年までの十年間、新通りの「山下」で働き、肉の仕事を学び、番頭までなった善作の給料は月「拾弐圓」。これは決して少ない額ではありません。むしろ当時の世間では高額の域に入ります。時代は明治から大正へと移り、洋食文化も一般に広まり始めました。「これからは日本も肉文化の時代になる、肉屋の時代がやって来る」そう確信し、善作は独立を考えるようになったのです。
明治末期に妻しもと結婚し、明治四十四年に長男要弌(当店二代目)も誕生しているのですから、三十代になって独立を考えることは、男として当然のことです。
大正五年、「山下」に暇をもらい、大正六年、善作三十二歳の春に、七間町通り(現在の七ぶらシネマ通り)のはずれに店舗を借り、開店準備を始めました。夏期に氷販売をしてから、冬期に精肉販売をすることにしました。
当時の肉料理は牛鍋が中心で、冬期にしか需要はありませんでした。それに、家庭に冷蔵庫もない時代では、夏期に精肉を販売しても、肉を家庭で保存することができなかったのです。当時の精肉小売業というものは肉料理屋のおまけ、というような考え方が世の中を支配していました。「山下」「三笑亭」などは、精肉小売り販売よりも肉料理屋が本業だったのです。
「山下」での仕事が、料理ではなく精肉担当であった善作にとって、料理店ではなく精肉店で独立したいと考えるのは当然のことでした。
また、資金面で考えても、善作には料理店を開店する力などなく、これから伸びるであろう洋食店への卸売りと一般家庭への小売りを中心とした精肉店での開店を考えたのでした。
善作の妻しもは、大正六年九月九日に死去しました。修業時代、そして独立してからの夏期の氷販売は見せることはできても、大石精肉店の肉屋としての冬期開店を見せることができなかった善作の気持ち、しもの気持ちを考えると切なくなります。
四代目の私に残された初代善作からの遺言は、「肉屋であり続けること」でした。近年、惣菜店へと変わっていく精肉店が多い中で、「軸足を大切にしなさい」という意味であろうと考えていましたが、「肉屋であり続けること」は、大石精肉店の肉屋としての開店を目前にこの世を去った妻への一番の供養であるという善作からのメッセージと、私には受け止めることができるのです。
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