【第二話】創業者善作が新通り・山下家の精肉部門の番頭に
当店の始まりは、新通り・山下家にありました。米店、茶店と相次いで廃業をし、家屋敷を失った大石家は、身内の縁で新通りの山下家に家族全員で居候することになったのです。
明治中期の新通り一丁目は、旧東海道であり静岡市の一等地でした。この地で慶応二年、山下豊吉氏が牛肉販売を始めました。静岡市で始めて牛肉販売を業としたのは、元治元年、新谷町(現在の御幸町)望月茂平氏で、山下豊吉氏は二番目でした。大石家が山下家に入ったのは創業者豊吉氏の代ではなく、長男銀蔵氏が牛肉販売を営んでいる時でした。
明治時代の牛肉販売業とは、料理店が主業で、自家で料理(牛鍋)し、精肉も販売するほかに屠殺(とさつ)もし、またその当時の商習慣で氷の販売も行っていました。山下家では、静岡連隊にも牛肉を供給していたそうです。
屠殺は当初、安倍川の河原で行われ、その後(年不詳)七番町に屠殺法により屠殺場が設けられ、明治三十九年まで続きました。この屠殺場は、山下銀蔵氏、大石熊吉氏(当店とは無関係)、大橋金之助氏による合資会社でした。
まだ「士族」などの身分制度の名残りがあった時代でしたから、俗称「四足」(よつあし)と呼ばれる牛の肉を一般に食すことはしても、扱うことは卑しいことという現代人には想像もできない考え方が世の中を支配していた当時の状況からして、屠殺を兼ねる牛肉販売業を始めることは、相当思い切ったことだったのです。
山下家の、今後の日本の食文化の流れを考えた「先見の明」と「進取の力」そして「決断と実行」にはただ頭が下がる思いです。
大石吉蔵の長男、大石善作(当店創業者)は居候の息子ではありましたが、この牛肉料理店の精肉部門の番頭を任されるまでになったのです。
熱心に仕事をして家族を養うことができるようになった善作は、妻しもと結婚し、明治四十四年、長男要弌(よういち 当店二代目)が誕生したのです。

※本内容は、新通・山下家ご協力のもと「山下栄蔵伝」(昭和五十一年刊)を参考にしました。

| 大石精肉店 | 11:37 | comments (0) | trackback (0) | - |
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